日本酒振興のための提言

第3章 太平洋戦争後の日本酒の置かれた環境
※第1章、第2章は研究レポートに掲載されております。

12、太平洋戦争後の日本酒を取り巻く環境と三増酒、近年の日本酒の品質向上のための各メーカーの努力

①終戦直後の食糧難と施設及び人的損失による酒造りの困難
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太平洋戦争の日本の損失と日本酒生産量
総額で約497億円(日本評論社・戦後20年史より)(現在の貨幣価値で約140兆円~150兆円であり1937年(昭和12年)の人口を100とした場合)、人的被害が約310万人(厚生省援護局より)あり、1945年(昭和20年)当時の日本の人口が約7200万人で総人口の約4.3%が犠牲になっている。
実際、空襲により日本の主要都市はほとんど焼け野原となり、農業生産に至っては1945年(昭和20年)の米の収穫高は1944年(昭和19年)の約半分近くまで減少し、水産漁獲高については1947年(昭和22年)の時点で戦前の約6割までしか回復していなかった。
こうなると当然日本酒の生産どころではなくなり、1935年(昭和10年)の時点で日本酒の生産量が約407万石だったのが、1945年(昭和20年)時点で約84万石まで減少した。
酒蔵の数も1930年(昭和5年)に8000場以上あったものが、昭和初期の不況や戦時の企業統制、空襲の影響で約3800前後まで減少した。

2戦後の食糧難と闇酒の横行
太平洋戦後の1945年(昭和20年)以降、兵士の復員や農業生産量の減少、流通網の破綻等により、日本国内では、国民の日々の食事分すら無い程、深刻な食糧難が起こっていた。
特に酒造業は前記の通り壊滅的な打撃を受けており、空襲などで焼かれた酒蔵だけでも223場、昭和20酒造年度の全製成量の17%の酒が失われ、杜氏や蔵人の戦死者も多くあり、その上原料となる米が絶望的に不足していた。
その結果、兵士の復員などで飲酒人口が増えたにも関わらず、酒類の供給量が追いつかなかった為、闇市にてメチル、カストリ、バクダン等の密造酒 が大量に横行した。
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1戦後闇市にて販売されていた密造酒
Ⅰメチル・・・戦争中に石油燃料の代用に製造されたエチルアルコールを水で希釈したものにメチルアルコールを加えて、人が間違えて飲まないように桃色に着色したものだったが、酒への渇望から手を出して失明したり死亡したりする人が出た。
Ⅱカストリ・・・酒粕から造った粕取り焼酎とは別物で、密造の粗悪な芋焼酎の事を指し、飲んだ後のコップが脂ぎって汚れるのが特徴だった。
Ⅲバクダン・・・戦時中の航空基地などで使い残された燃料用アルコールを活性炭で脱色し水で薄めたもので、即席焼酎などと呼ばれて販売され、失明、死亡率が最も高かった。
(出典 麻井 宇介著 「酒・戦後・青春」より引用)

3)三倍増醸酒の登場
闇酒の横行は国民の健康を損ねるだけではなく、治安を悪化させ、政府にとっても税収の低減につながる為、合法的でなおかつ米を原料としない酒が研究され、太平洋戦中に満州で開発した第二次増産酒の技術を基に、国税庁醸造試験所にて三増酒の技術が開発された。
またこの時期の1948年(昭和23年)醸造年度において、戦争による蔵人の戦死による酒造技術の低下や酒造設備の不足から、全国各地で腐造が大量に発生し、この際に、醸造試験所や各県の指導技師は、腐造救済の為、添加用アルコールを特別配給し、これを醪に添加し発行を止めて味を調整し、何とか酒にする手法を指導したが間に合わず、全国的な酒不足が起こり、三増酒の生産が必要となり、1949年(昭和23年)酒造年度に全国で150場の酒蔵が試醸に参加して、その後、三増酒が増産されるようになっていった。
その後、日本は高度成長を遂げて国民生活が豊かになり1960年(昭和35年)の東京オリンピックを経て1964年(昭和39年)に新幹線を開業するまでになったが、純米酒の販売に関しては1964年(昭和39年)に玉乃光酒造が無添加清酒(2級酒)として発売するまで約15~20年程度空白となった。

② 大手メーカーのシェア争いによる三増酒増産の為の桶買いと地方メーカー
日本酒の大手メーカーのシェア

平成18年度日本酒メーカー上位出荷概数

(出典 菊正宗酒造 日本酒通信講座⑤日本酒の市場・酒類食品統計月報より引用)

2桶買いと桶売り
灘は日本酒の主産地の1つであるが、全国での灘酒のシェアは、明治の初期から昭和40年ごろまで10%を上下していたが、昭和40年代に入り灘酒の需要が高まり1975年(昭和50年)には30%もの高率となった。
このため製造設備が不足し、地方の酒蔵から桶買いを行い、ビン詰めと貯蔵、調合に関する設備投資を重点的に行って、生産量を増やし全国でのシェアを増加させた。
ここでの桶買いとは、ある酒造の貯蔵タンクの酒を、別の酒蔵が購入するという日本酒業界の商慣習である。
桶売り買いが常識化したのが昭和40年代で昭和50年まで増加し、その後は減少していった。
減少した理由は大手メーカーの設備更新による自社操業率の向上、桶買いによる原価の割高の是正、自社の製品を自社で生産しないことによる自社のイメージダウンなどで、最大の理由は、日本酒販売量全体の低下で桶買いをする必要がなくなったことである。

3桶買いと桶売りの功罪
酒の桶売りと桶買いは、灘だけではなく地方の有力メーカーに地方の中小の酒蔵が納めることで行われおり、現在有名になった地方の有力蔵でもかつては桶売りをしていたところが複数存在する。
桶買いをする中でも商品規格が特に厳しい灘の名門蔵や、桶買いをした中でいいものから順位付けする地方の有力蔵があり、これらに納品することで地方の中小蔵の日本酒製造技術が向上した蔵も複数存在する。

一方で、桶買い時に納品価格を競わせるなどして、品質よりも価格を求めた大手蔵も少なくなかった。
これらの結果、桶売り桶買いの商慣習が減少した後、桶売りで得た技術を自社の商品に反映させて桶売りが終わった後も商品の質の変換に成功した蔵も多く存在し、桶売りが出来なくなり、廃業する蔵も出ている。
個人的な意見を言えば、大手メーカーの持つ有力な技術を地方や中小蔵に渡すことが日本酒全体の質の向上に繋がり、この後の日本酒の全体の質の向上に貢献したという意味では、桶買い・桶売りというのは大きな視点からは決して悪いことではなかったように考える。

③昭和30年代後半から昭和40年代後半にかけての日本酒ルネッサンス
1)昭和20年代における三増酒の製造比率と三増酒に対する当事者間の考え
下記の表のように、毎年三増酒比率は高まっていった。食糧管理制度のもとで、原料米の割合は逐年増加していったが、政府が懸念したのは酒税の減収であった。

昭和24~27年酒造年度製造分日本酒三増酒比率

(出典 麻井 宇介著 「酒・戦後・青春」より引用)

このような状況の中で当時の当事者間の考えの違いは以下の通りであった。
Ⅰ当局(大蔵省、日本国政府)・・・原料米割当数量如何によっては、大幅造石やむを得ない。
Ⅱ大手メーカー・・・品質保持の為、総石数の半分を上回ってはならない。
Ⅲ中小メーカー・・・大衆酒としての三増酒は増石すべきである。
Ⅳ技術者・・・原料米割当数量の如何にかかわらず、一定の線を超えるべきではない。
(出典 酒・戦後・青春 麻井 宇介著)

この時の大手メーカーや技術者が後の時代に品質が問われるようになることをすでに確信していたことは、1973年(昭和48年)以降現実となり、現在の日本酒の生産量は当時の約3割まで落ちている。
ただ、時代背景を考えるとこの時代三増酒を増産せざる得ない状況にあったことは確かで、三増酒を一概に批判することはできないと思われる。

2)昭和30年代後半~40年代後半の世相
1955年(昭和30年)度に約8兆5000億円だったGNPは1970年(昭和45年)度は約70兆円になり、15年間に8.5倍以上の規模になり世界第2位の経済大国になった。
これが俗に言う日本の高度成長期である。
昭和30年代にスーパーマーケットが登場し、1957年(昭和32年)に大阪の千林でダイエーが開業)し、1963年(昭和38年)に東名、名神高速道路が開業し、1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催された。
1970年(昭和45年)に大阪万博が開催され、この頃、各家庭にテレビ、電気掃除機、冷蔵庫、電話が普及し、高等教育を受ける女性が急増し20代の高学歴女性のOLが増加し、都市部には高層ビルが立ち並び、電車やディーゼルカーが走り、主要道路はアスファルトで舗装された。
また、1960年~1975年にかけてベトナム戦争があり1970年(昭和45年)以降、安保闘争をピークとする左翼運動が高潮し、日本赤軍のあさま山荘事件やよど号ハイジャック事件が発生した。
1972年(昭和47年)に沖縄が本土に復帰した。
この高度成長期も1973年(昭和48年)の第一次オイルショック(石油危機)に伴い、狂乱物価抑制の為の総需要抑制政策が執行されて、高度成長期は終焉することとなった。

3)酒造り純米酒復活の動き
昭和36年(1961年)日本人の米の消費量がついに減少へと転じ、食糧管理制度は米不足とは正反対の深刻な米あまり現象を招き形骸化していった。
これ以前からイ号清酒(米、米麹、水のみを原料として発酵させたもの)つまり純米酒について、研究が行われていたようだが製品化は行われていなかった。
1964年(昭和39年)京都伏見の玉乃光酒造から無添加清酒として純米酒が発売された。
最初に商品化されたのは玉乃光であるが、1967年(昭和42年)から鳥取県では上原浩先生と有志酒蔵が中心になり純米酒の醸造を行い、広島県では賀茂泉酒造が純米酒の研究を行っていて1971年(昭和46年)に本仕込み賀茂泉として製品化を行った。
1973年(昭和48年)には純粋日本酒協会 が発足し、2013年(平成25年)現在17の酒蔵が参加している。
この昭和30~40年代の酒類マーケットとして、高度成長期に入った1955年(昭和30年)~1964年(昭和39年)にかけてビールの消費量は5倍に、ウィスキーはトリスバーを中心に、無に近いところから橋頭堡を確保するまでに達し、1965年(昭和40年)~1973年(昭和48年)にかけてビールは2倍に、ウィスキーは3.6倍に需要を伸ばしていた。
一方で日本酒では灘酒の需要が増え昭和40年代後半から昭和50年代に桶売り・桶買いが盛んになり中小の酒蔵は大手の酒造りを行っていた。
この頃(昭和40年代後半)から、愛飲家は日頃飲む酒を日本酒からビールやウィスキーに切り替え出し、日本酒離れが徐々に起こりだした。

4)賀茂泉のイ号清酒
昭和30年代半ば頃から賀茂泉酒造2代目前垣寿三氏は日本酒の置かれた状況に危機感を抱き、1965年(昭和40年)から純米酒醸造を開始した。
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2.1973年に(純粋な日本酒とは何か)をテーマに発足し日本酒の在りかたについて研究し続けている協会。発足時より、水、米、米麹のみを使った純米酒の開発と普及、啓蒙活動を行っている。
(出典 純粋日本酒協会HPhttp://www.junmaishu.com/right.htmlより引用)

この高度成長の時期に徐々に日本人の食生活が豊かになるにつれて、アル添酒中心の酒造りをしていたのでは消費者から日本酒が見放されて、欧米から本格的にワインやウィスキーが入ってくれば太刀打ちできなくなることを見越し、早くから純米酒を中心にした酒造りを行うべきだという事を海外視察より感じ、前垣寿三氏はレポートを作成し醸造協会に提出していた。
その頃に、玉乃光酒造が無添加清酒を製品化させ、賀茂泉酒造もイ号清酒(純米酒)である本仕込み賀茂泉を1971年(昭和46年)に製品化させた。

5)地酒ブームと日本酒ルネッサンスともいえる動き
昭和40年代後半から地酒ブームが消費者の間で徐々に起こり始めた。
これは地方の酒蔵が、アルコール添加の普通酒や三増酒主流の時代に敢えて純米酒や本醸造酒を差別商品として売り出した事に起因している。
この頃、一部の地方の酒蔵は、消費者の食に対するニーズの多様化による日本酒に対する危機感を大手に先駆けて持ち始め、大手と同じことをやっていては生き残れなくなると危機感を持っていた。
その結果として、1964年(昭和39年)に玉乃光の純米酒である無添加清酒の発売、1966年(昭和46年)には、京都伏見で月の桂の㈱増田徳兵衛商店が大吟醸古酒を造り始め、1976年(昭和51年)に全国に先駆けて発売、1971年(昭和46年)の賀茂泉酒造の純米酒である本仕込み賀茂泉の発売、大阪では西條合資会社によって天野酒の銘が復活、1980年(昭和55年)にまだ吟醸酒という言葉があまり世の中に知られていない時期に出羽桜桜花吟醸酒が出羽桜中吟として無鑑査の2級酒として発売された。
昭和40年代後半~昭和50年代前半にかけての新潟酒の淡麗辛口化が起こり、その後、昭和50年代後半から新潟酒が越乃寒梅を筆頭に久保田、〆鶴、八海山等の銘柄が幻化していく事になる。
三増酒やアル添酒が本格的に生産されだした昭和20年代半ばの時点では、大手もアル添酒や三増酒については否定的であり、1981年(昭和56年)には月桂冠が6月1日以降発売の製品には糖類を添加しないことを決定し、同年に菊正宗も三増酒の造りを廃止している。
この時期、地方の酒蔵は大手とは異なり日本酒本来の造りを始めることができたが、大手の酒蔵は雇用や国税局との兼ね合いから中々三増酒中心の造りから切り替えるのは難しかったと考えられる。
一方でこの時期に大手の桶売り・桶買いを行う事で地方の酒蔵の中には技術力と設備、後に特定名称酒を造る上での基礎となるノウハウを蓄えて、後の吟醸酒ブームや、平成に入って特定名称酒が見直されるにあたって台頭してくる蔵が出てくる要因を作ったと考えられる。

④灘の酒蔵の原点回帰と地域密着型の強い地酒酒蔵への転換の為の努力
1)大阪の地酒蔵の地域密着型経営

消費数量における灘五郷のシェア(単位%)

(出典 伊藤 亮司著 北海道大学大学院農学研究科論文 「流通再編下における酒造業の展開に関する実証的研究」より引用)

大阪府に関しては、他府県や全国平均に比較して灘五郷のシェアがとび抜けて高く、灘五郷の地元である兵庫県よりも灘五郷のシェアが圧倒的に高い。
これは、明治以降灘五郷の酒蔵が大阪のマーケットを使って、灘酒のマーケッティングを本格的に行ってきた経緯があると考えられる。
その上、昭和50年代後半より、地方からの有名銘柄の地酒が入って来ているので酒蔵の経営としては厳しくなっている。
そのような中で、地域密着品質重視のユニークな経営で生き残ってきているのが、大阪の酒蔵であり、その代表格が天野酒の西條合資会社(河内長野市)と三輪福の井坂酒造場(岸和田市)である。

Ⅰ西條合資会社
1718年創業の天野酒の銘柄で知られる西條合資会社は、年間製造石数が年間約700石で、完全地域密着型の経営の為、成長と発展をやめ、縮小と安定をめざし、河内長野、富田林、狭山の3市30万人の地元消費に特化している。
この天野酒の銘柄は、かつて僧坊酒として天野酒を製造していた天野山金剛寺の協力により西條合資会社が1971年(昭和46年)に復活させた経緯がある。
河内長野市の高野街道の酒蔵通りに酒蔵は位置し、酒蔵の建物は国の登録有形文化財になっていて、行政と一体になり酒蔵通りが整備され、街道の民家には杉玉がつるしてあり、歩いているだけでここが酒蔵の街だという事が分かるようになっている。

Ⅱ井坂酒造場
1818年に創業した三輪福の銘柄知られる井坂酒造場は、年間製造石数は約300石の出荷先が100%地元という完全地域密着型の酒蔵である。
かつて泉州の酒造りは、堺を中心に日本有数の銘醸地だったが、現在は岸和田の井坂酒造と和泉佐野市の北庄司酒造、阪南市の浪速酒造が日本酒を造っているだけである。
この蔵のユニークなのは、会員カードが約3000枚酒蔵の小売スペースに有って、会員カードに買い物した時の情報が記載されており、お客さんが来店し送り先を伝えるだけでお酒の梱包から配送まで行うという理想的な顧客サービスが実施されている点である。
純米酒比率が65%、杜氏は蔵の長男さんが務めるという家族経営で特定名称酒に特化した酒造りを行っている。

2)浅舞酒造に見る半径5km以内の酒米だけを使用する酒造り
1917年(大正6年)創業で天の戸の銘柄で知られる浅舞酒造は、年間製造石数は約1000石の秋田県の小さな酒蔵である。
主力ブランドの天の戸特別純米美稲は、フルネットの純米酒部門の上位10位内に常に入る人気商品で海外にも輸出されている。
ここの酒蔵も地域密着型の酒造りを行っており、平鹿町酒米研究会で作った減農薬・減化学肥料栽培(従来比の50%)の酒蔵から半径5km以内の酒米のみを使用して酒造りが行われている。
1968年(昭和43年)に全国的にも早い時期に純米酒の商品化を行うなどを行って来たが、1980年代後期には全盛期の25%まで業績が悪化し、1983年(昭和58年)に吟醸造りを中止した。
1988年(昭和63年)に吟醸造りを再開し試行錯誤の中でこの年、平鹿町酒米研究会発足させて、1991年~1996年に山田錦を使用せずに地元産の美山錦と吟の精を使って5年連続で金賞を受賞した。(1995年鑑評会は開催されなかった)
現在、自社で生産した酒米や地元産の酒米のみを使用して酒造りを行っている酒蔵は増えてきてはいるが、今から約25年前から地域密着型の酒造りをめざし、地域に根差した強い酒蔵経営を行っている地酒酒蔵の代表格だと言える。

3)菊正宗の上撰酒以上のきもと回帰
2009年(平成21年)より菊正宗は上撰以上の日本酒について全てきもと造りに変更している。現在では、菊正宗は年間製造石数10万石を超える大手メーカーの1つではあるが、1892年時(明治25年)年間製造石数3,069石と大きいが灘五郷の生産量の約1%を生産する蔵でしかなかった。その後、1911年(明治44年)には16,514石で灘五郷の生産量の約3.4%を生産するようになり、1923年(大正12年)には、35,028石で灘五郷の生産量の約6.1%を生産するようになった。
明治から大正期にかけて産業や流通が整備される間に製造石数が約10倍以上になる驚異的な発展を遂げたが、その間に行われた1921年(大正10年)の第8回の清酒品評会では灘酒は1つも優等を取ることが出来ず、次の9回目以降灘酒は品評会をボイコットすることになる。これは、品評会での評価が市場での評価と必ずしも一致しなかったことと、一般市場を中心に考えた酒造りを行った結果、品評会に出品するよりも一般市場を重視せざる得なくなってきたからと考えられる。
1892年から1923年の間に大きな発展を遂げたことの理由として、きもとでの酒造りがさらに完成度を高めたことと、鉄道や汽船の流通網や各地方の問屋との繋がりの強化があったことが大きな理由であるが、この間に清酒品評会や醸造試験場、地方の酒造家による日本酒ルネッサンスとも考えられる醸造革命の結果、日本酒の酒質自体は一気に向上を果たしている。
それでも、灘酒が大きな発展を遂げたのは市場を見る徹底的なマーケティングを行ったことと、とことんまでこだわった品質の向上があったと考えられる。
近年、灘五郷では、従来の速醸もとの造りと並行し灘酒の原点であるきもと造りによる酒造りを行った製品が少しずつではあるが増えてきている。
その中でも大手メーカーの代表格である菊正宗酒造による上撰以上の商品のきもと造りへの転換に関しては、非常に意味のあることだと思われる。
また、宮水を発見した櫻正宗株式会社では、協会1号酵母(櫻正宗酒造にて発見)を使用し、きもとを使った製品を60年ぶりに復活させて製品化するなど大手メーカーも原点回帰し従来のシェア第一から品質第一へと考え方の転換を行うようになってきている。
近年、灘の生一本プロジェクトという題目で、灘の酒蔵9社(大関、菊正宗、剣菱、櫻正宗、沢の鶴、道灌(灘工場、滋賀県)、日本盛、白鹿、白鶴)が純米酒による720mlの日本酒を灘酒研究会で審査し出すようになる等、徐々にではあるが量から品質重視へと考え方を転換するようになってきている。
その意味では、菊正宗酒造の上撰以上の酒を全てきもとで造った酒のみを販売するという会社の方針は、非常に注目に値すると思われる。